JR各線を巡る旅の記録

6 小浜線 福知山線(全日程)



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1991年3月21日
【金沢】6:32発−(普通)→【敦賀】9:05着、9:58発−(普通)→【東舞鶴】11:56着、12:26発−(普通)→【福知山】13:23着、13:56発−(普通)→【大阪】16:09着、16:15発−(新快速)→【大津】16:54着、17:10発−(新快速)→【米原】17:53着、17:55発−(普通)→【福井】20:07着、20:35発−(普通)→【金沢】22:09着。なお、米原→福井の普通列車が敦賀駅停車中に【敦賀】18:40着、18:47発−(普通)→【西敦賀】18:51着、19:05発−(普通)→【敦賀】19:09着、19:13発、という移動を行っている。

 18きっぷを使った旅もこれで6回目。近場を順調に乗りつぶしていった頃の話である。確かこの時、所持金が500円ぐらい。何かがあって遅れたらどうにもならない金額であったが、軽い昼食しかとることができない金額でもあった。

 なお、この旅は1991年3月に行っていますが、旅行記は2002年7月に書いております。11年間のブランクがあるということと、本文中、「今」とあるのは2002年7月現在であることをお含み置きください。


●金沢−敦賀(北陸本線)

 金沢6時32分発の普通列車。ダイヤ改正で若干変動があるものの、よく乗る列車になってきた。この2〜3年後、まさか毎日この列車に乗って通学する運命になるとは、この時は知る由もなかったのである。

 とりあえず、よく乗っているこの列車で、11年前に何があったのか、まったく覚えていないのだが、牛ノ谷−細呂木間はカーブの多いところであるという印象だけは残っている。

 そうして敦賀に到着。確かこの時は、急行列車が出たすぐ後で、時間がかなりあったのである。とりあえず、駅からウロウロと歩く。しばらく歩き、踏切を渡ろうとしたら、どうも様子がおかしい。北陸本線の踏切らしくない。と思っていると警報機。ディーゼルカーにひかれた短い貨物列車が通っていった。今ではなくなってしまったようであるが、貨物線。敦賀港へ行く路線であった。北陸本線の旧路線跡でもあった。そうして、駅の裏あたりに行きながら、再びウロウロとして、敦賀駅へ戻る。

●敦賀−東舞鶴(小浜線)

 敦賀から気動車に乗る。気動車のこの加速も懐かしい。西敦賀の駅で山側を見ると、いつも通っている北陸本線のループ線があった。こういう仕組みになっていたのであった。

 この路線の車窓については、この10年後ぐらいに乗ったときの旅行記に詳しく書いてあるので、そちらをご参照いただきたい。(34 四国 山陰)

 三方五湖の一部分を見下ろしていたということ、上中あたりで水田の中を走っていたということ、小浜で少し長めに停車したこと、そうして若狭湾沿いに走り、七尾線の和倉温泉から穴水あたりで七尾湾を見るのとよく似た景色である、という記憶がある。

 そうして、松尾寺から京都府に入り、東舞鶴に到着する。

 東舞鶴駅は今では高架駅になっているが、当時は地上駅。しかも、舞鶴線も電化されていなかったため、架線のない、線路だけが多い駅だったと思う。駅前にパチンコ屋などがあり、その奥には商店街があった。そういうところを少しウロウロしてから、待合室で待っていた。

●東舞鶴−綾部−福知山(舞鶴線・山陰本線)

 東舞鶴から西舞鶴の間、山越えをする。今では電車のため、そんなに難所と感じなくなったが、当時は旧型の気動車であった。山を登る間、スピードがかなり落ち、ようやく登っているという感じであった。そうして、下りになると別人のようにスピードを上げて走り出す。レールの継ぎ目の音もまったく違っていた。

 西舞鶴を過ぎてから、真倉・梅迫・淵垣。何となく国道沿いに走り、国道沿いに駅があったという記憶がある。

 そうして綾部から山陰本線。初めて山陰本線を走ることになった。かなり山陰本線に「憧れ」というものがあり、日本一長い路線、景色もよいらしい、ということで、全線乗り通してみたいと思っていた。そういう憧れていた山陰本線に、わずか3駅間であるが、足を踏み入れたということでとてもうれしかった。当時は非電化であったが、複線。線路も安定していたように感じた。この短区間であるが、山陰本線はただ者ではないと思った。

 そうして福知山。とりあえず駅から外へ出て、ウロウロする。どこかの大型商店のウラをウロウロしていた記憶がある。そうして、改札を通る。この日の所持金は500円ぐらい。とりあえず昼食を。駅のホームでうどんを食べた。貴重な食料である。今ではこういう、少ない所持金での旅、怖くてできない。しかもこの日、キャッシュカードの類も持っていない。ただ、この日は、これだけしかお金を持っていなかったのは確かである。それから早めに列車に乗る。その当時はここから西側の山陰本線は一部電化されていて、電車と気動車が混じって停まっていた。駅の裏には多くの電車・気動車が停まっていたと思う。

●福知山−尼崎(福知山線)

 福知山から大阪まで直通する。大阪まで乗ることにする。

 福知山からしばらくは水田のような、何となく広いところを走っていたと思う。谷川から加古川線の分岐。いつかは乗るであろう、と思っていた。(2000年9月に乗車。)

 その後はなんとなく、山が深くなってきたと思う。(谷川以降は30 可部線・宮島航路・加古川線 を参照)それから、三田あたりで結構、町になった。その後、再び山の中へ。ふと見ると、古い線路と、トンネルの跡が見えた。2000年9月ではそういうものが見えたような気がしなかったが、当時とは違う状況になったのだろうか。

 そうして、山深いところを、トンネルで突き進む。武田尾駅になると、一部分がトンネルであった。それから宝塚になり、市街地になってくる。そういうところを進み、尼崎から東海道本線へ。今なら尼崎から新快速に乗り換える、という発想なのだが、当時は尼崎に新快速は停車しなかった。ということで、そのまま大阪で降りることとなる。

●大阪−米原(東海道本線)

 大阪で改札を通り、ちょっと外へ出た記憶があるのだが、どちらへ出たのか、まったく覚えていない。とりあえず、生まれて初めて、大阪駅の改札をくぐったのであった。(この3ヶ月前に大阪駅で乗り換えたが、改札は通っていない。)

 ホームで列について新快速列車を待っていた。そうして座ることができないまま東へ進んでいった。とりあえず、北陸本線との接続の都合で、大津で一度降りる。町をウロウロするが、ほんとうに琵琶湖が近い駅であった。「特急も通過する県庁所在地」という駅であったが、駅前のバスなど、やはり県庁所在地だなと思った。

 大津から再び新快速へ。今では「快速」「普通」、あるいは「大和路快速」なんかで使われているこの車両。当時は新快速としても新しかった。一番後ろで、流れていく線路と、運転席の計器類を眺めていた。そうして、米原へ到着。新快速が長浜まで直通するようになるのは、この半年後であった。

●米原−敦賀(北陸本線)

 米原から北陸本線の普通列車へ。長浜までものすごく混んでいたと思う。木ノ本を過ぎてから落ち着く。何となく、このあたりの流動というものが分かりかけてきた頃であった。近江塩津を過ぎ、福井県に入った頃にはガラガラであった。この列車、敦賀でかなり長く停車する。何か遊びはできないか、と思って時刻表を。敦賀停車中に、小浜線の列車に乗り、粟野ですれ違う列車で戻ってくれば、この列車に再び乗ることができるのである。とりあえず、粟野駅では単に行って戻ってくるだけ。それならば、その一つ前、西敦賀へ行って来ればどうか、ということを思いついた。そうして、敦賀到着と同時に、荷物を持って降りる。置いておいてもいいのだが、恐ろしくてできない。そうして、小浜線の列車で、午前中に乗ったルートを再び乗ることになった。

●敦賀−西敦賀−敦賀(小浜線)

 午前中とは違って、すっかり暗くなったところを走る。そうして西敦賀。無人駅であり、しかも町から少し離れており、そこへ降りて行くには林の中を歩かねばならない。夜一人で過ごすには少し薄気味悪いところかも知れない。

 そうしてしばらくホームにいると、電車の音が近づく。汽車ではなく電車。そうして、さっと過ぎていったようである。目の前のホームではなく、目の前の山の中腹。北陸本線のループ線であった。そうしてしばらくすると再び列車が通過していく。空の色と山の色が同じで、何となく列車が空中を走っているようであった。そうしてしばらくすると今度はゆっくりと汽車の音が近づいてきた。この列車で敦賀まで戻る。

●敦賀−金沢(北陸本線)

 さっき降りた列車は同じところに停まっていた。この列車で、福井へ。福井駅もこの時、初めて降りた。地下道に「手寄、日之出方面」と。そういう地名もあるのだと思ったが、3年後にはなじみのある地名になっていた。

 そうしてそのまま金沢まで戻る。当時は、高架下の自転車置き場もできておらず、22時を過ぎても心配することなく自転車で帰ることができた。


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